ニットのデザイナーとして修行した3年の間に得た事
学生時代は、小学校も中学校も高校も母と先生方や多くの友人達のサポートにて、無事卒業しました。
卒業後は、友達の縁にて、とある『デザイナー』さんに出会い仕事をする事になりました。
『編み物』を習い2年程で、師範代になっていましたので、その腕を認められたのです
当時は、世界でも、日本でも活躍する布帛のデザイナーさん達が、こぞってニットを扱うようになっていまして、私の師匠も『ニット』への進出を狙い、即戦力として使える私を雇ってくれたのです。
あ〜でも『雇われた!』という言葉は、ちょっと違うかもしれません
だって、『無給』でしたから。
私は、好奇心がとても旺盛なので、ただ糸を編むだけの仕事はしたくなかったものですから、『ニットのデザイナー』という言葉に興味深々です。
お金を稼ぐ事には、ほぼ興味がない私にとって未知の『知識』を得られる事は『値千金』でしたから『無給』は気になりませんでした。
それより、『師匠から何を学べるのか!』という事にときめいておりました。
しかし、興味深々で飛び込んだ未知の世界は予想だにしない厳しい世界でした。
ニットデザイナーというのは布帛の世界と違って、『一本の糸から生地を作る世界』でもあったわけです。
師匠から、1番最初に与えられたミッションは『動いてキレイな物を作って来い!』でした。
朝から晩まで、3日3晩考えましたし、先輩達にも聞きましたが、答えが出ません…降参した私の前で師匠は糸を、くるくると手に巻いて結び、端っこをハサミで切って『フッ』と息を吹きかけたのです
その瞬間、糸は息という風になびきとてもキレイな動きを見せたのでした。
『糸=編む』という発想しか無かった私には、固定概念を打ち砕かれた衝撃の瞬間でした。
それからの修行も、独自のデザイン画など一切描くな!
一流と言われてるデザイナー達の作品をトレーシングペーパーで写したように模写しろ!と言われましたので、模写しまくりの日々を送りました。
そうした中で、師匠の秘書みたいな役柄も兼ねて接客を学び、師匠の無理難題をひたすら熟すのです。
徹夜で仕上げた作品も、師匠から認めてもらえないなら、目の前でほどかされ、作り直しです。
負けん気の強い私は、喰いつきましたね
どうやったら、師匠の言う作品ができるのか?寝ても覚めても考える事はそれだけ
その真剣勝負の世界には、ハンディのある無しは一切関係ないのです。
出来るか?出来ないのか?ではなく
やるのかやらんのか?
まさに、サバイバルの世界です
ハンディのある無しを言い訳にせず挑戦し続けた甲斐があって、ニットデザインのコンクールで2年連続日本1になりました。
ダブル編み(表の色と裏の色が全く違う、所謂2枚仕立ての様に見える)の技術は、私が生み出したものです。
今思えば特許物の技術ですが、細い糸を使って動いてキレイなドレスを創り出す事が出来た喜びは、日本1と言う賞賛も特許も全然魅力的ではありませんでした。
テレビを始め、雑誌、新聞などのメディアにも取り上げて頂きましたし、世界的に有名なデザイナーだったY氏からスカウトもされましたが、それさえも色あせるくらいの達成感を感じました。
僅か3年しか居なかった『ニットデザイナー』の世界で私が学んだ大事な事
⚪︎ハンディなんて、全く関係ない事
⚪︎一見出来ない!と思える事も諦めずに取り組む事で、独創性を創作出来る事
⚪︎探究心が、新しい世界を創る事
それらを学び得た私は、3年のニットデザイナー生活を卒業する事を選んだのでした。